日本の高校教師が教育について自論を語ってます。

高校教師の考えた教育論

現役の高校教師があーでもない、こうでもないと教育について愚論を展開しています。

デジタル採点

 デジタル採点が急速に学校教育にも広がっています。テストを配信して、自動で採点、点数入力から成績処理まで機械化されています。

 また、紙の答案でも答案用紙をそろえて機械に流し込めば、採点終了です。山のような答案用紙を前にため息をついていた時代とはオサラバだということのようです。

 私も先日、古文単語テストで使わせていただきました。今までは私が解答を読み上げて、生徒同士に相互採点をさせて(百題テストだったので)いたのですが、解答用紙をマークシートにして、機械に読み込ませる方式を教えてもらい実施しました。そうすると、相互採点させた後の点数の入力作業も無くなり、本当にあっという間にデータ化出来ました。すごく楽だと有り難く思いました。

 しかし、これを定期テストでもバンバン使うという気にはなれませんでした。周囲の先生方は今年度からは学校の後押しもあって更なるデジタル化を推進するようですが、私はその流れには乗らないつもりです。別に準備や作業行程が難しいわけではありません。たとえやり方を覚えられなくても親切に教えてくれる先生方はたくさんいます。

 では、なぜ、デジタル採点を私はしないのか。それは生徒の力を把握出来ないからです。確かに一枚一枚答案用紙をめくりながら、赤ペン片手に採点するのは骨が折れる作業です。面倒です、本当に。しかし、一方でそうやって採点していると発見もあります。記号問題でも、消して書き直して間違えているとかわかりますし、まして記述式だと字の具合、字数の加減、ポイントのズレ方などなど、解答者の姿勢や思考が解ります。採点の労に見合うだけの価値があるのです。「あー、やっぱり、ちょっと難しいかと思って出したら、この子だとこういう解答になるのか。」とか、「へぇ、今回はこいつ気合い入れて勉強したな、百字でも怯まずに解答してるやん、間違えてるけど。」とか、解答用紙を見ながら生徒一人ひとりの顔を思い浮かべてブツブツ言いながら採点していく楽しみがあります。

 やっとのことで丸つけを終えて最後に計算して名前の下に赤ペンで63点とか85点とか書いて、「クラス平均は何点になるのか?」とワクワクしながら教務手帳に点数を名簿順に手書きしていきます。そしてクラス平均を出して反省です。平均が高くても低くても出題に難点があるわけですし、クラス間の差、個別の生徒の出来不出来まで感触としてはっきり頭に刻まれます。

 これを繰り返すことで、自分の授業の有り様、試験の適否を振り返り、次こそはと思って次のテストまでの作戦を練ってきました。同じ所を教えている先生との意見交換は金言です。反省材料に事欠きません。

 また、答案返却、解答解説にも、採点時の思いが口をついて出てきます。生徒たちも、多少は採点の苦労を察してくれるのか、或いは人力による採点ミスに期待を寄せるのか、たぶん後者でしょうが、常の授業よりも集中して話を聞いてくれます。

 つまり、採点作業とは長い時間をかけて行う教師の反省会のようなものだと私は思います。おそらく諸先輩方もそのようにして、「教えたように帰ってくるなあ」と喜んだり悲しんだりされてきたのだと思います。

 もし、今後、デジタル採点が進化して、効率化が図られ、教師が採点の煩わしさから解放されるようになったら、教師の成長の機会が減るように私は思います。入試の採点ならまだしも、日々目の前で自分の授業を受ける生徒の力を把握しないで、また自分の授業を振り返らないで先生は成長しない、ひいては生徒も成長しないのではないでしょうか。

 顔を見て授業を教室で行うことと同じく、数字以上にテストでも得られる感触というものがあると思っています。この形にしにくい感触を磨いてこそ教師力が向上していくと言ったら言い過ぎでしょうか。