日本の高校教師が教育について自論を語ってます。

高校教師の考えた教育論

現役の高校教師があーでもない、こうでもないと教育について愚論を展開しています。

教育のど真ん中

 明けましておめでとうございます。昨年12月からこちらにブログを書いています。誰かが読むかもしれないという一抹の緊張感を持ちつつも、自由に伸び伸びと荒唐無稽な話をダラダラ書いています。

 今までも中高教師用メールマガジンなどに文章を載せて頂いてきました。思うにそのような書く機会を頂いて一番得をしているのは間違いなく自分自身です。書いたものを見返すだけで、ここはこう書くべきだったなどの反省というか新たな言葉が誕生してきます。

 思えば、文章化することに楽しみを感じたのは小学校の1年生の頃だと思います。担任の先生から文章を褒められたのがきっかけだったと思います。小学校2年では原稿用紙10枚ぐらいの文章を適当に書いていました。何らかのコンクールに出そうとして企画外だったか、期限に間に合わなかったかで未発だったこともあったと記憶しています。

 小学校の6年間は読書と作文に明け暮れ、後は野外でサッカーやソフトボールに勤しんでいました。あの6年間は今思えば、自分の人生の縮図だったように思います。本を読み、考え、しゃべり、文を書き、ボールと戯れるという生活パターンの快適さはあそこで一旦完成されていました。

 その後は、やりたくないこととどう折り合いをつけて、本を読み、考え…というやりたいことをやる時間を作るかという葛藤を演じてきたように思います、今となってはですが。

 そこで、もしですが、やりたくないことの量が少しでも軽減されて、やりたいことが拡大されていたら、どうだったのだろうということを空想してしまいます。やりたくないことの大半は学校の宿題と受験勉強ですから、まあ、言ってみれば、進級とか進学について憂えなく、適度に授業に出て、友だちと遊び、あとは読書から始まるやりたいことパターンをやり込んでいたら、どうなったのだろうという空想です。

 昔から人間やりたいことだけをやっていたらロクな人間にならないと言われますから、やはりそのように堕落した役立たず人間になっていた可能性は否定出来ないと思います。

 しかし、その一方で、やりたいことに没頭して、壁にぶつかりながらも、やりたいことをやり続けていたらどんな人間になっているのだろうと考えると、我がことながらユニークな人間に仕上がっただろうなと容易に想像がつきます。もちろん、私の意志が強く、能力が高ければ、やりたくないこともさらっとこなし、身につけ、その上でやりたいことも充実させられたのかもしれません。しかし、私はやりたいこととそうでないことの境界線が年追うごとに鮮明になり、折り合いをつけるのが面倒になってしまいました。結局いい訳に過ぎませんが、やりたくなくてもやらねばならないことをやったら、後はエネルギーを充電して終わりというような日々を多く過ごしてしまいました。

 高校2年の冬になって、やはりやりたいことに近い仕事に就きたいと一大決心をして、今の国語教師という仕事に就きました。

 もし、そこでも決断していなければ、現在は後悔の日々を送っていたのではないかと思います。

 と考えていくと、やりたいことの障害になっていたやりたくない受験勉強とは何のための教育だったのでしょうか。やりたいことだけをやっていたのでは我慢の足りない人間になったかもしれないですが、今より個性の強い野郎になった気がします。

 そして、さらに考えると、私の今まで過ごした時代というか時期は、我慢していればある程度安定した仕事がありましたが、今から後の時代を生きると考えると、我慢よりユニークさを取るべきだと思います。

 つまり、今から後の時代を生きる、仕事して面白い生き方をするには、受験勉強で個性を殺す方策は取らない方が良いと思います。私は辛うじて、高校2年から自分がやりたいことを中心にし、ついには仕事にしたので、あまりストレスとか後悔なく生きています。

 もし、まだ、将来のためだと言って没個性的な教育を昔みたいにど真ん中に据えて、ローラー作戦みたいなことをして、それに従順に従がわせてしまったら、罪深いことだと私は思っています。やりたくないこととやりたいことの折り合いをうまくつけ、できたら、やりたいことを十分できる道をど真ん中に据えた教育を今はした方が良いと思います。

 やりたいことがないという人にはその悩み自体がないので、それはそれでやむを得ませんが、私はこんな生活をしてみたいと思う形があるならば、それを優先する勇気は持った方が良いでしょう。