日本の高校教師が教育について自論を語ってます。

高校教師の考えた教育論

現役の高校教師があーでもない、こうでもないと教育について愚論を展開しています。

昌平高校サッカー部

 昨日、つまり2020年1月5日、テレビで高校サッカーの試合を観戦しました。前任校の埼玉県の昌平高校対青森山田高校の準々決勝でした。結果は2対3で青森山田高校の勝利でした。

 勝って日本一に近づいてほしいと思っていましたので、とても残念ではありますが、ここまで上がってきたことに対して、勝ち負け以上の感慨がありました。その思いについて少し書いてみます。

 私が長崎日大高校で知り合った風間先生からの紹介を受けて昌平高校に就職したのが12年前です。その頃はまだ人工芝になっていたのは30周年記念で作られたテニスコートだけでした。サッカー部が練習していたグランドはお世辞にも良いとは言えない普通の土のグランドでした。週に1、2度はサッカー部も人工芝のテニスコート(一応多目的グランドという名目だったので)で練習させてくれと言われました。

 私はソフトテニス部の顧問監督となり、毎日中庭のはずれにあった昔の寮の建物の一室で着替えをしていました。その建物は今はなくなり、中学校の校舎が建っています。そこで着替えていたのは、國學院栃木で甲子園出場の経験を持つ設楽先生と、あと1人、藤島さんでした。藤島さんはサッカー部の総監督というかアドバイザーとして来られていたのですが、この方が元日本代表で主将を務められていた藤島信雄さんだと知ってビックリ仰天したのを覚えています。というのも、3人が共同で使っていた部屋は雑然とした半分物置きのような部屋でしたから、まさかそんな粗末な部屋で着替えをされているとは思いもしませんでした。もちろん、設楽先生もですが、まあ、設楽先生も私も教員として勤務しており、当時の昌平高校の状況(あらゆるものが揃ってない)を考えれば我慢も出来たのですが、それと外部から招聘した藤島さんのようなすごい経歴のある方が同じでいいのかと恐縮したものです。

 監督は当時から藤島先生(藤島信雄さんの息子さん)でした。私より2年程前に就任していたようです。キリッとした好青年でした。しかし、サッカー部自体はやっと紅白戦ができるかという人数でしたし、はっきり言って勝てそうではなかったです。私は前任校である長崎日大高校で全国大会に出るサッカー部を間近に見ていたので、人数もレベルも段違いだと思いました。しかも埼玉県は昔からのサッカー王国です。浦和なんとかと名のつく学校で強い所がたくさんありました。まあ、その当時は県大会それ以前の東部地区で勝つのも大変そうな感じでした。私の第一印象は、こんなに有名な方が関わったとしても、全国に行くのは不可能ではないかという悲観的なものでした。

 しかし、その第一印象はすぐに変わりました。荒れ地のようなグランドで一生懸命に練習し、声を枯らして指導する藤島先生の姿、そして、生徒が帰った後、真っ暗なグランドを何往復もして軽トラックでブラシをかけておられる父藤島さんの姿、また、誰より早く学校に来て仕事をする藤島先生の仕事ぶりに接して「この人たちはただサッカーで勝てれば良いとは思っていない」と気づき、これはもしかしたらもしかするかもと思い始めました。

 その後、グランドも人工芝になり、サッカー部が県でベスト4の常連になったあたりから藤島さんの姿をお見かけしなくなりました。

 おそらく全国でベスト8まで来た昌平高校を藤島先生の前任校である青森山田高校と重ねて見ている人も多いと思いますが、全く違うと私は思います。同じならば、藤島先生が青森山田を辞めて昌平高校でゼロからサッカー部を立て直して今日のようにする必要性がないからです。

 誰よりも早く学校に来て、誰よりも遅くまで学校に居て、30歳代で教頭をして、生徒募集に奔走し、高校サッカー部の下部組織であるクラブの運営、サッカー部とラグビー部兼用の寮の運営までも視野に入れて仕事をしている藤島先生だからこそ出来る高校生らしいサッカー部が埼玉県というサッカー激戦地区でも頭角を現したのだと思います。

 あの弱い弱いサッカー部のグランドのブラシかけを黙々となさる元日本代表主将の父藤島さんと学校の仕事を完璧にしてからサッカー部というその息子藤島先生とが産んだ高校サッカー部は、一本筋の通った部活動だと思います。そんじょそこらの成り上がりサッカー部とは違うということを声を大にして言いたいです。